【加佐ノ岬倶楽部】地域創生を目指しカフェレストラン・食の開発・移動スーパー・交流館・音楽療法を行い、未来の社会事業を構築する

北前船のふる里、橋立町

北前船とは、江戸時代から明治中期にかけて莫大な富を得ていた商船の名称です。
春の彼岸頃に大阪を出航し、瀬戸内、山陰の各港をへてから下関経由で日本海に出て、北陸、東北の諸港をまわりながら北海道に向かいました。
この船の特徴は、「運賃積み」(=他人の荷物を運ぶ)ではなく、「買い積み」(=自分の船で自分が買い入れた品を売りさばく)だったこと。
寄港地や出航地で木綿や米・酒・塩・砂糖・紙・衣料・石材等を自由に仕入れて売買していました。帰りは北海道のニシンや昆布、数の子、鮭、鱒等を大量に積みこんで、再び各港を売り回り、晩秋か初冬の頃に大阪に帰ったのです。

加賀市の橋立集落は、北前船主が特に多かったことで知られ、寛政8年(1796)には、42名の船主の名がありました。
橋立といえば北前船、北前船といえば橋立といわれるほどその関係は深いものでした。橋立町はまさに「北前船のふる里」と呼ぶにふさわしい地です。

北前船のふる里、橋立町

橋立に残る、"日本一の富豪村" 伝説

北前船が莫大な利益をあげた要因は、北海道からの積み荷が、遠隔地であることから生じる価格差によってとくに高値で売れたことでした。一航海で千両の儲け(今の価値でいうと約一億円ともいわれる)を生み出し、小さな橋立村にも巨額の富が流れ込みました。最盛期、橋立地区には、船主をはじめ北前船にたずさわった人々の豪壮なお屋敷が49軒も存在しました。博文館発行の『生活』という大衆雑誌が大正5年7月号に「日本一の富豪村」というルポタージュを掲載しています。汽船や鉄道の登場によって、大正時代にはすでに北前船は歴史の舞台から消えましたが、ロマンの余光はまだ残っていたのです。記事にはこう記されています。
"...恰(あたか)も城郭のような堂々たる家ばかりである。現に久保彦兵衛氏の邸宅は、石垣の高さ一丈五尺。どんな家でも平地から直ちに門内に出入りすることは出来ない。此の石垣の石を売っても地面以上に高価だと云われるから如何に石垣に念が入っているかが解るであろう"
(「日本海繁盛記」高田宏/岩波新書より引用)

昭和20年代以降、船主の屋敷は取り壊されたり、庭石は骨董商らに買い取られたりしました。橋立には、いまも十数軒の屋敷や屋敷跡が残り、
そのたたずまいはひっそりとしながらも、かつての賑やかだった頃の思い出を懐かしんでいるようにも見え、どこか誇らしげです。

橋立に残る、

今も生き続ける"北前魂"

「板子一枚下は地獄の海」といわれるように、当時、大きな白帆にめいいっぱい受ける風を頼みの綱とした航海は、運命を天にゆだねるようなものでした。「間違いましたら後をよろしく」。間違いとは、つまり難破。航海に旅立つ時、男たちは家に残していく家族に決まってそう告げました。そんな命がけの挑戦にもかかわらず、北前船主たちは、収益を個人の生活にあてたばかりでなく、日本経済を動かすようなさまざまな功績を残しています。地元はもちろん、国や県、大学、金融機関、保険会社、北洋漁業など、さまざまな協力、協賛を怠りませんでした。たとえば、橋立の北前船主・久保家の六代目久保彦兵衛は、大火で苦境に立った諸産業に融資して立ち直らせたり、学校教育に援助したり、明治末には大聖寺川の水力発電会社を起こすなど、近代産業の発展に尽力しました。海の向こうに見果てぬ夢を追いかけ、荒波に果敢に挑むという開拓スピリット。さらには郷里への惜しみない愛。そんな男たちのロマン「北前魂」は、いまもなお風化することなく、この地の人々のなかに脈々と受け継がれています。

今も生き続ける

北前船の里資料館

「北前船の里資料館」は、1983年に開館した、全国初の北前船の資料館です。資料館の建物は明治9年、橋立町の旧北前船主、酒谷長平が建てた豪邸です。敷地面積は約1,000坪。最高級の建材を使った建物内には航海道具や船主の暮らしぶりをうかがわせる貴重な家財や資料が数多く展示されています。北前船時代の空気にタイムスリップすることができます。
http://www.city.kaga.ishikawa.jp/kitamae/

北前船の里資料館

主要参考文献

「日本海繁盛記」高田宏/岩波新書 
「北前船を語る」 牧野隆信/牧野隆信
「日本海こんぶロード 北前船」読売新聞北陸支社編/能登印刷出版部
「橋立町史」/橋立町史編纂委員会Ⅱ編/橋立町史編纂委員会
「橋立町の歴史」/橋立町史編纂委員会Ⅱ編/橋立町教育委員会